ドストエフスキーをロシア語からドイツ語に翻訳したある女性の生涯を綴りながらその翻訳家の人生に焦点を当てた映画。

 

最初はスヴェトラーナ・ガイヤーの日常生活が描かれる。明るい日が差す家で食事を作る。アイロンをかける。孫たちに料理の作り方を教える。そんなありふれた日常の中でガイヤーは翻訳をしている姿が映りだされる。

 

しかし、状況は一変。ウクライナ出身のガイヤーは過去ソ連、ドイツに占領されたウクライナ出身で、そこでソ連の圧政に遭い、ドイツの進行に遭い、ドイツに逃げることになるが、アーリヤ人か否かを調べるために取り調べを受ける。ガイヤーは優秀な成績で高校を卒業したこともあり、ドイツから奨学金を付与されドイツで学ぶ道を選ぶ。そこで、敵国出身のガイヤーはドイツで学ぶことに困難はあったが、それをある将校が救ってくれるし、しかしその将校はその件もあり前線に送られるのだが。数奇な人生を食ったガイヤーの過去が映し出され、そこでガイヤーがなぜ翻訳家になったかが見え始める。

 

ガイヤーは「負い目がある。」と話し、助けてもらったドイツ人将校に恩を感じ、ドイツを好きになったという。そのせめてもの恩返しが翻訳家になることだったという。

 

その人が書いたもの、考え方を知りたく場その人の人生を知るべきである、というのは「歴史とは何か」を引き合いに出さなくても自明のことかもしれないが、その人を理解するためにはやはり、その人の道程を知るべきであろう。

 

しかし、ことは本質を異にする。なぜならガイヤーは翻訳家だからである。翻訳家とは陰に徹すべきである。翻訳家が前面に出れば原書の色合いが変わってしまいかねない。

そんな翻訳家の人生を描くことにどこまで意味があるのだろうか。当然の考え方として、翻訳家は完全に黒子たらない。翻訳がある以上、翻訳所は原書と完全に一致せず、それを埋めるためには翻訳家の解釈が入ってくる。その意味で翻訳家は完全に黒子にはなれないのである。しかし、翻訳家の哲学はきわめて興味深い。まず、翻訳を一人でしていない。自分で文章を打たないし、ドイツ人に朗読してもらいながら表現の間違いを訂正していく。議論のある翻訳とは非常に興味深い進め方だ。しかし、最も興味深い哲学は。。。。まだわらかない笑

 

さて、罪と罰はガイナーによって罪と贖罪と訳された。

ラスコーリニコフは自己の行為を理性によって正当化された。しかし、その後常に良心の呵責によって苦しまされた。行為の正当性は、結果における良心の呵責によってのみはかられる。理性によって行為は常に正当化可能である。しかし行為の結果に私たちは常に苦しむし、そしてそれが正当化できていないことを本質に知っている。だからこそ、私たちは理性を悪用してはならないのだ。

 

「ドストエフスキーの文章は宝探しのよう。2度、3度と読んで初めて見つかるような宝石が、目立たない場所に隠れているから。すでに訳したことがあっても、訳しきれない。それこそがおそらく最高の価値をもった文章である証拠です。」

 

なんど読んでも色あせない本がある。それこそが一生涯読み続けることができる本であり、愛読書になりうるだろう。年によっても、読んだ時の気持ちや環境によってもその本の意味は異なるだろけれど、それでもその時にあった大切なものをその本は与えてくれる。その時々の本を読んだ心の動き、それこそが自身の人生を映し出す。最良の本とは、その人の人生を移す最良の鏡なのだ。